悼公(とうこう、? - 前451年)は、衛の第34代君主。霊公の子で荘公・衛君起の弟。
生涯
霊公の少子として生まれる。
出公後7年(前470年)5月、褚師比・公孫弥牟・公文要・司寇亥・司徒期らが乱を起こしたため、甥の出公は宋へ出奔した。
出公後21年(前456年)、出公が薨去したため、叔父である公子黔(けん)が立って衛君(以降は悼公と表記)となり、出公の太子を攻め滅ぼした。
悼公元年(前455年)5月、魯の叔孫舒は越の皋如と舌庸、宋の楽茷と会合し、出公を衛に入れようとした。衛では公孫弥牟(子南文子、悼公の弟の公子郢の子)が迎え入れようとしたが、公文要(公文懿子)が反対した。そこで衛軍は諸侯軍と戦ったが敗北し、公孫弥牟が門を開けて出公を入れようとした。しかし、出公は伏兵を恐れて結局衛に入ることはなかった。その後、悼公は公孫弥牟の補佐で政治を行い、出公のいる城鉏(じょうそ)を越に与えた。
悼公5年(前451年)、悼公が薨去し、子の弗が立って衛君(敬公)となった。
参考資料
- 『春秋左氏伝』(哀公二十五年、二十六年)
- 司馬遷『史記』(六国年表、衛康叔世家第七)



