陳叔英(ちん しゅくえい、生没年不詳)は、南朝陳の皇族。豫章王。宣帝陳頊の三男。字は子烈。

経歴

陳頊と曹淑華のあいだの子として生まれた。天嘉元年(560年)、建安侯に封じられた。太建元年(569年)1月、豫章王に改封され、宣恵将軍・都督東揚州諸軍事・東揚州刺史に任じられた。太建3年(571年)、御史中丞の袁憲による弾劾を受けて免官された。太建5年(573年)1月、平北将軍・南豫州刺史に転じた。太建11年(579年)6月、鎮前将軍・江州刺史となった。

太建14年(582年)1月、後主が即位すると、征南将軍の位に進んだ。9月、開府儀同三司の位を加えられた。至徳元年(583年)1月、中衛大将軍の位を受けた。至徳4年(586年)1月、驃騎大将軍の位に進んだ。禎明元年(587年)11月、司空に上った。禎明3年(589年)、隋軍が長江を渡ってくると、叔英は知石頭軍戍事として防戦にあたった。まもなく建康台城に入って朝堂に駐屯した。陳の六軍が敗北すると、叔英は隋将の韓擒虎に降伏した。この年のうちに関中に入った。隋の大業年間に涪陵郡太守となった。

長子の陳弘は、至徳元年(583年)に豫章国世子となった。

伝記資料

  • 『陳書』巻28 列伝第22
  • 『南史』巻65 列伝第55

脚注


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