カーナーヴォン伯爵(英: Earl of Carnarvon)は、イギリスの伯爵位。三回創設されており、第1期の物はイングランド貴族、第2期と第3期の物はグレートブリテン貴族である。爵位名はウェールズの町であるカーナーヴォンおよびカウンティであるカーナーヴォンシャーに由来するが、これらの地名の綴りは Caernarfon に変更されている。現存する第3期のカーナーヴォン伯爵位は、ペンブルック伯爵ハーバート家の分流でトーリー党の政治家だった初代ポーチェスター男爵ヘンリー・ハーバートが1793年に叙位されたのに始まる。
歴史
第1期 ドーマー家
バッキンガムシャーの地主であるロバート・ドーマー(1551年-1616年)は、1615年6月10日にイングランド準男爵位の(バッキンガムシャー州ウィングの)準男爵(Baronet "of Wyng, in the County of Buckingham")に叙せられ、ついで同年6月30日にイングランド貴族爵位バッキンガムシャー州ウィングのドーマー男爵(Baron Dormer, of Wyng in the County of Buckingham)に叙位された。
1616年11月8日に初代ドーマー男爵が死去した際に彼の長男サー・ウィリアム・ドーマー(Sir William Dormer)はすでに死去していたため、その息子であるロバート・ドーマー(1610年-1643年)が第2代ドーマー男爵を継承した。チャールズ1世の廷臣であった彼は、1628年8月2日にイングランド貴族爵位のカーナーヴォン伯爵とアスコット子爵(Viscount Ascot)に叙せられた。初代カーナーヴォン伯爵となったロバートはイングランド内戦において騎士党(王党派)につき、1643年9月20日の第一次ニューバリーの戦いで戦死した。伯爵位は一人息子のチャールズ・ドーマー(1632年-1709年)に継承されたが、2代伯爵は男子にことごとく先立たれたため、彼の死とともに断絶した。アスコット子爵位も一緒に廃絶したが、ドーマー男爵と(ウィングの)準男爵位については初代ドーマー男爵の次男の孫にあたるローランド・ドーマー(生年不詳-1712年)に継承された。
以降のドーマー男爵位についてはドーマー男爵の項目を参照。
第2期 ブリッジズ家
第2期のカーナーヴォン伯爵に叙されるブリッジズ家は、ジョン・ブリッジズ(1492年-1557年)がメアリー1世からスードリー城とともに1554年4月8日にイングランド貴族爵位グロスターシャー州スードリーのシャンドス男爵(Baron Chandos, of Sudeley in the County of Gloucester)を与えられて以降、この爵位を継承し続けた家柄である。初代男爵の次男の息子であるジャイルズ・ブリッジズ(1573年-1637年)は、1627年5月17日にイングランド準男爵位の(ハートフォードシャー州ウィルトンの)準男爵(Baronet "of Wilton in the County of Hereford")に叙せられており、彼の孫にあたる3代準男爵ジェイムズ・ブリッジズ(1642年-1714年)が8代シャンドス男爵を継承したことで、この(ウィルトンの)準男爵位はシャンドス男爵位の従属称号となった。
8代シャンドス男爵の子ジェイムズ・ブリッジズ(1674年-1744年)は、襲爵前にヘレフォード選挙区選出のトーリー党の庶民院議員などを務め、1714年10月19日に第9代シャンドス男爵を襲爵した直後の同年10月19日にグレートブリテン貴族爵位カーナーヴォン伯爵とハートフォードシャー州におけるウィルトン子爵(Viscount Wilton, in the County of Hertford)に叙せられた。この2つの爵位には彼の父の男系男子を特別継承者(special remainder)とする規定が付けられていた(兄弟の男系男子も続かなかったので結果的にはこの規定は意味をなさず)。ついで1719年4月29日にはグレートブリテン貴族爵位シャンドス公爵(Duke of Chandos)とカーナーヴォン侯爵(Marquess of Carnarvon)に叙せられた。
彼の没後これらの爵位は息子のヘンリー(1708年-1771年)が継承し、ついでその息子のジェイムズ(1731年-1789年)に継承された。3代公ジェイムズは1747年2月10日に母方からスコットランド貴族爵位のキンロス卿(Lord Kinloss)を継承していたことが後世に確認されている(デ・ジュリ)。男子のない3代公爵の死去後、シャンドス公爵、カーナーヴォン伯爵はじめほとんどの保有爵位が断絶したが、キンロス卿のみは娘のアンに継承されている。
第3期 ハーバート家
第8代ペンブルック伯爵トマス・ハーバートの五男ウィリアムの息子で、ウィルトン選挙区選出のトーリー党所属の庶民院議員を務めたヘンリー・ハーバート(1741年-1811年)は、1780年10月17日にグレートブリテン貴族爵位サウサンプトン州ハイクレアのポーチェスター男爵(Baron Porchester, of Highclere, in the county of Southampton)に叙位され、これにより貴族院に移った。ついで1793年7月3日にはグレートブリテン貴族爵位カーナーヴォン伯爵に叙位された。この時授けられた称号は正式には「Earl of the Town and County of Carnarvon, in the Principality of Wales」であるが、通常は単にカーナーヴォン伯爵(Earl of Carnarvon)として言及される。以降カーナーヴォン伯爵位は2019年現在までハーバート家によって継承され続けている。ポーチェスター男爵位はカーナーヴォン伯爵位の従属称号となり、カーナーヴォン伯爵位の法定推定相続人は「ポーチェスター卿」の儀礼称号を帯びる。初代伯はその後、1806年から1807年にかけて初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィル内閣において主馬頭(Master of the Horse)を務めている。
初代伯の死後に爵位を継承した息子の2代伯ヘンリー(1772年-1833年)やその息子で3代伯爵となったヘンリー(1800年-1849年)も、襲爵前に庶民院議員を務めた後に襲爵で貴族院へ転じている。3代伯爵の長男であった4代伯爵ヘンリー(1831年-1890年)は保守党の有力政治家であり、1866年には第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの第3次内閣で植民地大臣に就任し、カナダに最初の自治領(ドミニオン)を設立させた。1874年から1878年にかけてはベンジャミン・ディズレーリの第2次内閣で再び植民地大臣を務め、カナダと同じ方式の南アフリカ自治領創設に努めたが、不成功に終わった。第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルの第1次内閣にはアイルランド総督として入閣し、パーネルとの条件付き自治の交渉にあたったが、実らずに終わった。彼は植民地には開明的な思想を持っていたが、内政面では選挙法改正に「階級闘争を激化させる」として断固反対し続けた。
4代伯爵が没すると、息子のジョージ(1866年-1923年)が5代伯爵となった。5代伯爵はアマチュア考古学者であり、ハワード・カーターのスポンサーとなりツタンカーメン王の墓の発見を支援したことで知られている。続いて5代伯爵の一人息子ヘンリー(1898年-1987年)が6代伯爵、6代伯爵の一人息子ヘンリー(1924年-2001年)が7代伯爵となった。2019年現在のカーナーヴォン伯爵は8代伯爵となるジョージ(1956年-)で、2001年に襲爵した。彼は、2012年に第18代ペンブルック伯爵ウィリアム・ハーバートに息子が生まれるまでペンブルック伯爵位の推定相続人でもあった。
カーナーヴォン伯爵家の邸宅はハンプシャー州のハイクレア城である。この城は司法長官ロバート・ソーヤーからその娘マーガレット(第8代ペンブルック伯の妻)、その次男ロバート・ソーヤー・ハーバート、その甥にあたる初代カーナーヴォン伯へと相続された城である。ここはテレビドラマ『ダウントン・アビー』の撮影に用いられた。
現当主の保有爵位
現当主ジョージ・ハーバートは以下の爵位を保有している。
- 第8代カーナーヴォン伯爵 (8th Earl of Carnarvon)
- (1793年7月3日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
- サウサンプトン州におけるハイクレアの第8代ポーチェスター男爵 (8th Baron Porchester, of High Clere in the County of Southampton)
- (1780年10月17日の勅許状によるグレートブリテン貴族爵位)
カーナーヴォン伯爵 第1期(1628年 - 1709年)
カーナーヴォン伯爵 第2期(1714年 - 1789年)
ポーチェスター男爵 (1780年 - 現在)
カーナーヴォン伯爵 第3期(1793年 - 現在)
- カーナーヴォン伯爵(3期)の法定推定相続人は現当主の息子であるポーチェスター卿(儀礼称号)ジョージ・ケネス・オリヴァー・モリニュー・ハーバート(1992年 - )である。
出典
参考文献
- 松村赳、富田虎男『英米史辞典』研究社、2000年。ISBN 978-4767430478。
関連項目
- ハーバート家
- ペンブルック伯爵
- ポウィス伯爵
- トリントン伯爵
- チャーベリーのハーバート男爵
- クラドウェルのルーカス男爵




