レノックス伯爵夫人マーガレット・ダグラス(Margaret Douglas, Countess of Lennox, 1515年10月8日 – 1578年3月7日)は、スコットランド王ジェームズ4世の未亡人(Queen dowager)マーガレット・テューダーと、その2番目の夫・第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラスの娘で、スコットランド王ジェームズ5世の異父妹であり、イングランド王ヘンリー7世の外孫。
若い頃、彼女は叔父のイングランド王ヘンリー8世に大いに気に入られていたが、王の怒りを2度招いた。初めはトマス・ハワード卿と王の許可を得ずに婚約した際で、1537年、トマスは彼女との不釣り合いな結婚のためにロンドン塔で死去した。2度目は1540年、トマス・ハワードの甥でヘンリー8世の5番目の妃キャサリン・ハワードの兄弟サー・チャールズ・ハワード(Charles Howard)との関係のためだった。
1544年7月6日、彼女はスコットランドの有力貴族である第4代レノックス伯マシュー・ステュアートと結婚した。息子のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートはスコットランド女王メアリーと結婚し、ジェームズ6世/1世の父となった。
前半生
1515年、マーガレットはイングランド・ノーサンバーランドのハーボトル城で生まれた。父アンガス伯がスコットランドで困難に直面していた時、母マーガレットはスコットランドから国境を越えていた。母のジェームズ4世未亡人マーガレット・テューダーは幼王ジェームズ5世の摂政を務めていたが、1514年に第6代アンガス伯アーチボルド・ダグラスと密かに再婚したことで周囲の強い反感を買っており、アンガス伯の子を妊娠した摂政王太后マーガレットはスコットランド枢密院の監視下での生活を危惧して母国イングランドに逃亡したためである。和解が成り、1517年に一家はスコットランドに戻ったが、まもなく両親は政治的に激しく対立するようになり、1528年3月までに離婚した。
1528年10月、アンガス伯はスコットランド王ジェームズ5世に脅され、マーガレットをツイード川を越えてイングランドのノラム城へ送り返した 。乳母または侍女のイソベル・ポパーを伴ってベリック城に短期間滞在した後 、マーガレットは彼女の代父・ウルジー枢機卿の世帯(Household)に加わった。1530年にウルジーが死去すると、マーガレットはボーリューの王宮に招かれ、メアリー王女の世帯に住んだ 。イングランド王位への近さゆえに、マーガレットは従妹で生涯の友となるメアリー王女(後のメアリー1世)との密接なつながりの下、主にイングランドの宮廷で育てられた 。1530年、1531年そして1532年のグリニッジ宮殿でのクリスマス季節には、ヘンリー8世はマーガレットに総額10マルク(£6余、当時の1マルクは13シリング4ペンス相当;2023年時点の£4,995と同等)もの大金を与えた。
アン・ブーリンの宮廷ができた時、マーガレットは女官(lady-in-waiting)に任命された。そこでアン・ブーリンの叔父トマス・ハワード卿に出会い、彼らの求愛が始まった。トマスは第2代ノーフォーク公トマス・ハワードと2番目の妻アグネス・ティルニーの下の息子だった 。1535年末までにトマスとマーガレットは恋に落ち、密かに婚約した。
1536年5月、ヘンリー8世は王妃アン・ブーリンを処刑した。1536年7月初めにマーガレットとアンの叔父トマス・ハワードの婚約を知るとヘンリーは怒り狂った。ヘンリーは、同年6月に娘のメアリーとエリザベスを庶子であると宣言し(第二継承法)、マーガレットを有力な王位継承候補者に留め置いていたから、彼女にとって、王の許可なく婚約したこと、特に有力貴族の息子かつ不祥事を起こした王妃の近親との結婚は、政治的にとんでもないことだった。トマスとマーガレットはともにロンドン塔に投獄された。同年7月18日、私権剥奪法により、議会は「前記の王位継承の妨害・邪魔・障害(to interrupt ympedyte and lett the seid Succession of the Crowne)」を試みたとしてトマスの死刑を宣告した。同法はまた国王の許可を得ない如何なる王族の結婚も禁じた。トマスは刑の執行は免れたが、マーガレットが彼らの関係を絶った後もロンドン塔に留め置かれた。彼は1537年10月31日にロンドン塔で死去した。マーガレットもまたロンドン塔で病に倒れ、ヘンリー8世は彼女を許し、女子修道院長の監督の下、サイオン修道院へ移した。1537年10月29日、彼女は監禁から解放された。
1539年、マーガレットとリッチモンド公爵夫人メアリーは、ヘンリー8世の花嫁(4番目の王妃)アン・オブ・クレーヴズをグリニッジ宮殿で出迎え、彼女に仕え、彼女を王のもとに連れていくよう命じられた。これは大変な栄誉だったが、それよりヘンリーはアンにロチェスターで会うことを選んだ。
1540年、マーガレットは先年問題のあったトマス・ハワード卿の甥サー・チャールズ・ハワード(Charles Howard)と関係を持ち、再び王の不興を買った。彼はトマスの異母兄エドムンド・ハワード卿の息子で、ヘンリー 8世の5番目の王妃キャサリン・ハワードの兄弟だった。
1543年、マーガレットはハンプトン・コート宮殿でのヘンリー8世のレディ・ラティマー未亡人キャサリン・パーとの最後の結婚の、数人の立会人の一人となった。マーガレットは王妃キャサリンの女官長の一人となった 。キャサリン・パーとマーガレットは、ともに1520年代に宮廷に来て以来、旧知の仲だった。
結婚と外交
1544年、マーガレットはスコットランド人亡命者で、後の1570年 - 1571年にスコットランドの摂政になる第4代レノックス伯マシュー・ステュアート(1516-1571)と結婚した。彼らの子供は、1545年にテンプル・ニューサンで生まれたダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(1545-1567)と、1574年にエリザベス・キャヴェンディッシュと結婚したチャールズ・ステュアート(1555-1576)がいた。エリザベスはサー・ウィリアム・キャヴェンディッシュとハードウィックのベスの娘だった。
1548年6月、ラフ・ウーイングの戦争中、マーガレットの父アンガス伯が、彼女の異母兄弟のジョージ・ダグラスやほかの家族がダルケイス宮殿で捕らえられたことを書き送ってきた。アンガス伯は、マーガレットとその夫レノックス伯が、捕虜としてよく扱われるよう手配できると期待していた。レノックス伯は、義父は他に助力を求めた方が良いと書いて、サマセット公エドワード・シーモアに手紙を転送した。1549年3月、マーガレットはレスル城から父に、彼が夫に会うことを避けていると不満を書き送った。彼女は父に、"なんと記念すべきことだ!"と彼女の結婚を認めることを通して、名誉の平和を求めるよう頼んだ。
イングランド女王メアリー1世の治世中、マーガレットはウェストミンスター宮殿に部屋を持っていた。1553年11月、女王は大使シモン・ルナールに、「マーガレットが王位を継承するのに最もふさわしい」と語った。マーガレットは1558年12月のメアリー女王の葬儀の喪主を務めた。エリザベス1世の王位継承にあたり、マーガレットは、テンプル・ニューサンにある自宅がローマ・カトリック教会の陰謀の中心となっていたヨークシャーに移った。
マーガレットは、長男ダーンリー卿ヘンリーとその従姉のスコットランド女王メアリーを結婚させることに成功し、こうしてイングランドの王位継承権を一体にした。エリザベス1世はこの結婚を良しとせず、1566年にマーガレットをロンドン塔に送ったが、翌1567年に息子のダーンリー卿が殺害されると彼女は釈放された。マーガレットは義理の娘のメアリー女王を非難したが、結局、後に和解させられた。
夫のレノックス伯は孫のジェームズ6世の摂政としてスコットランド政府を担ったが、1571年に暗殺された。
1574年、マーガレットは次男チャールズとシュルーズベリー伯ジョージ・タルボットの継娘エリザベス・キャヴェンディッシュとの結婚により、再びエリザベス1世の怒りを招いた。彼女は伯爵夫人のハードウィックのベスと異なり再びロンドン塔に送られ、1576年の息子チャールズの死後、赦免された。
マーガレットの外交は、孫のスコットランド王ジェームズ6世の未来のインランド王位継承に大きく貢献した。
死と遺産
次男チャールズの死後、マーガレットは孫娘アラベラの世話を助けた。しかし、彼女はそれほど息子より長生きせず、1578年3月に死去した。死の数日前、レスター伯ロバート・ダドリーとともに食事をした。これが彼女が毒殺されたという噂につながった。これを実証する歴史的証拠はない。
マーガレットは借金を残して亡くなったが、エリザベス1世の費用負担で、ウェストミンスター寺院で壮大な葬儀が営まれた。彼女は寺院のヘンリー7世礼拝堂の南側通路の息子チャールズと同じ墓に埋葬された。彼女の孫息子が見事な記念碑を建立したと言われているが、実際は彼女の遺言執行者でかつての使用人トマス・ファウラーによって1578年10月に依頼されたものである。マーガレットのアラバスター製の横臥した彫刻は、フレンチ・キャップと青と金のドレスの上にひだ襟をつけた赤い毛皮のマントを着ている。墓の両側面には、彼女の4人の息子と4人の娘の悲しむ姿がある。
“Lennox Jewel”または“Darnley Jewel”と呼ばれるロケットは、発注の時期や機会については異論があるものの、十中八九、1570年代にマーガレットのために作られたものである。1842年に彼女の子孫であるヴィクトリア女王によって買い取られた。"ロイヤル・コレクションで最も重要な初期の宝石の一つ"と考えられているそのハート形のロケットは、ホリールード宮殿で展示されている。
詩
マーガレット・ダグラスは彼女の詩で知られている。作品の多くは恋人のトマス・ハワード卿に書き送られたもので、デヴォンシャーMS(Devonshire manuscript)に保存されている。親友のメアリー・シェルトンやリッチモンド公爵夫人メアリーは、サリー伯ヘンリー・ハワードやトマス・ワイアット同様に主な寄稿者だった。
祖先
脚注
注釈
出典
この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Lennox". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 419.
この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Stewart". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 25 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 911.
参考文献
- de Lisle, Leanda (2012). Tudor: The Family Story. Chatto & Windus
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Lennox". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 419.
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Stewart". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 25 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 911.
- Denny, Joanna (2005). Katherine Howard: A Tudor Conspiracy. Portrait. p. 8. ISBN 978-0749950736
- Stevenson, Jane (2001). Early Modern Women Poets (1520–1700): An Anthology. London: Oxford University Press. ISBN 9780199242573. https://archive.org/details/earlymodernwomen0000unse
- de Lisle, Leanda (August 2013). “King Henry's Niece”. History Today 63 (8). http://www.historytoday.com/leanda-de-lisle/king-henrys-niece.
- Weir, Alison (2001). Henry VIII: The King and His Court. New York: Ballantine Books. ISBN 0-345-43659-8
- Weir, Alison (2015). The Lost Tudor Princess: A life of Margaret Douglas, Countess of Lennox. New York, NY: Ballantine Books. p. 8. ISBN 9780345521392
外部リンク
- Margaret Douglas: Life Story, Tudor Times, 9th October 2015.
- Margaret Douglas: The forgotten Tudor princess, BBC History Magazine, November 18, 2015 at 5:00 pm



